昔話

2005.06.20

今どきの高校生

一方的に「けっ」と思ってしまったけれど、あの人目はばからないカップルにも、それなりのいちゃつきたい理由があったのかもしれない…と、思いを馳せている(暇なやつ)。

たとえば…

①彼がもうすぐ転校してしまうので、頻繁に会えなくなる
②彼女が留学を決意した
③彼女の両親に交際を反対され、会う場所がない
④友達の彼を奪ってしまったため、学校では2人で会えない
⑤ネットで知り合って、今から2人で世を捨てようと思っている(これは見た目の偏見です。かなり失礼…)


ああくだらない。
でも確実に④はないなあ。そんなに奪いたくなるような男ではなさそうだったし(女の子にしても)。

まあでも、高校生が外でいちゃつける場所なんて、そりゃめったにないよなあ。そう思うと、デパートのちびっこ広場の片隅でいちゃつくくらい、かわいいもんじゃないかと思えてきた。


そういえば今思い出した話。
前の仕事(予備校のスタッフ)をしていたとき、担当クラスの男の子(高3)から、冗談じゃなく度肝を抜かれるようなことを言われた経験がある。

隣の友達を小突きながら、「あのねー○○さん(私の名前)、こいつ昨日童貞捨てたんっすよ」

ああ、本当にいまどきの高校生ってやつは。
でもそういう話って突然聞くと、どう返していいかわからなくなる。しかも相手はこれまた同じクラスの女の子だと言う。

内心「どひゃー」と思いながらも冷静を保ちつつ、私の口から出たせいいっぱいの言葉は「…おめでとう」だった。
「ったく、あんたら忙しいはずの受験生でしょうがー!」と怒ってみたところで、私の動揺は隠せるはずもなく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここからはちょっと話が変わります。いろいろと思い出があふれてきて止まらない。

この度肝抜き発言をされたのは、私が予備校でクラスを担任するようになって1年目だった。この年の生徒のことは、今でもよく覚えている。私も一生懸命だったし。

この友人の童貞喪失を暴露した生徒は無事志望校に受かり、大学生になってもちょくちょく予備校に遊びに来てくれていた。大学に入って始めたアルバイト先で、「彼女ができそう」と嬉しそうに話してくれた。

その2週間後の七夕の日、彼から「童貞捨てたんやで」とからかわれていた元生徒から突然連絡があった。
「あいつ、死によった・・・。明日通夜やから、来たって」

ビルの屋上から誤って転落。お酒も入っていた。アルバイト先の飲み会だった。
通夜の席、そんなことをぽつりぽつりと仲がよかった元生徒たちから聞いた。

夏期講習中、頑張りすぎて青白い顔をしていたこともあった。
普段の授業のときも、誰よりも遅くまで自習室に残っていた。
その年では、3本の指に入るくらい伸びた生徒だった。
合格発表のあとすぐに予備校に来て、一番に報告してくれた。涙目だった。
大学に入学したあと、予備校に遊びに来ていたついでに、私の受け持ちだった新3年生のクラスで、授業後のHRで受験や大学の話をしてもらったりもした。

やっと念願叶って行きたかった大学に入れたのに。本当に、これからだったのに。
最後の飲み会、きっと楽しかったんだろう。彼女もその場にいたのかもしれない。

まだ実感が湧かないお通夜のとき、壇上に置かれた、いつもの笑った遺影をぼんやり眺めながら、
「ほんまに、あんたあほやなあ」
そんな言葉しか出てこなかった。なにやってんのよ、これからやってときに…。

2週間前にふらっと大学の帰りに寄ってくれたとき、ロビーの休憩コーナーで手作りのお弁当を食べていた彼。
「お? 彼女にでも作ってもらったの?」と、からかったら、
「ちゃうねん、まだおかんに作ってもろてるんや」と、嬉しそうに言った。
お通夜のとき、うなだれたお母さんを見たら、胸が苦しくて涙がこぼれた。

あれからもう4年。ああ、もう4年もたったんだ…。
本当だったら、今年大学を卒業だったんだなあ。もう、社会人になってたのか。
仕事を辞めて、思い出すことも少なくなっていたけど、今日久しぶりに思い出したなあ。

今年の七夕、晴れるかな。
毎年晴れたら会えるような気がするんだけど、あれは「おりひめとひこぼし」か。
でも、どこかで生まれ変わって新しい人生が始まってたらいいなあと思う。
それとも天国で、かわいい彼女でも見つけているんだろうかなあ。

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2005.04.25

不運

電車の脱線事故、時間を追うごとに本当に悲惨なことになっている。
朝10時過ぎに実家の母から、「だんなは大丈夫?」とメールが来て、なんのことや?とテレビをつけて、はじめて事故のことを知った。

画面の映像と「JR尼崎」というアナウンサーの言葉に、背中がいっぺんに凍りついた。
ダンナはいつもJRで神戸まで戻るからだ。心の中で「これ起こったのいつ?!何時?!」と叫びながら、手に汗握りながら画面に食いついていると、やっと「9時過ぎに・・・」とアナウンサーが言ったのが聞こえて、深い安堵のため息をついた。よくよく聞くと路線も違っていた。
ああ、よかった・・・。本当によかった・・・。

ダンナに関して、こういう爆発的な不安に駆られる思いをするのは、これが2度目だ。

大げさでなく、ダンナの安否がわからなくて目の前が真っ暗になったことがあった。
4年前の、「9.11全米テロ」のとき、ダンナはアメリカにいた。8月末から2ヶ月の予定で、出張中だった。
このとき私たちは結婚するつもりで、すでに同棲をしていた。

ダンナは通信系のSEで、このときはアメリカ国内を転々としながら通信ケーブルの設置をしてまわっていた。
出張に行ってすぐのころはちょくちょくメールで、今どこの都市にいるとか、次はどこへ行くとか、おしえてくれていたが、そのうち忙しくなったのか3日に一度くらいしか連絡がとれなくなった。

9月11日のこの日、私は仕事から遅くに帰って、一息ついてテレビをつけると、信じられない映像がどこのチャンネルをつけても流れていた。
「へ?なんかの映画?なになに?なんかあったの?」
すぐに事態を飲み込めなかった。メディア側も、情報が混乱していた。

――ニューヨークのトレードセンターに2機の旅客機が追突、他にも全米16機ほどの旅客機がハイジャックされ、そのうち何機かは墜落――こう伝えるアナウンサーのけたたましい叫び声に、体中の力が抜けた。頭が真っ白、目の前が真っ暗、まさにそんなかんじだった。

「3日前に連絡があったとき、確かリッチモンドにいるって言ってた。今後は北上するって・・・」
地図帳を見ながら、手ががくがくと震えた。
リッチモンド、フィラデルフィア、ワシントン、ニューヨーク・・・・・・。
転々と都市を飛びまわっていた。彼は今どこ・・・。もしかして飛行機の中なんじゃ・・・。

何度も彼のPCにメールを出した。実家の母に泣きながら電話をした。心配した友人たちが電話をくれた。
何時間たっても、彼から連絡がなかった。
不安で不安で、心がはじけそうだった。

私はもう、絶望的な気持ちになっていた。彼はきっと飛行機の中だ、そんなふうにしか考えられなくなっていた。
絶対大丈夫だ、という信じたい気持ちが、どんどんどんどん打ち崩されていくようだった。

そのうち日本人の死亡者で確認が取れた人の名前が、テレビ画面に流れ始めた。
万がいち彼がテロに巻き込まれていても、彼の名前は絶対流れない。彼はその当時まだ国籍が日本国籍ではなかった。名前も、日本名ではなかった。
日本人の安否として、日本に伝わってくることはないだろうと思っていたので、本当にもう、彼からの連絡を待つしかなかった。

緊張と不安で一睡もできず、もうろうとしながらテレビを見つめていた明け方、突然電話が鳴った。
心臓がばくばくと音を立てているのがわかった。
緊張しながら受話器をとると、「もしもし?」と懐かしい彼の声が聞こえた。瞬間、全身の力が抜けぶわっと涙があふれた。しばらくは声が出なかった。

そんなこっちの状況を知らない彼は、のほほんと、「いやあ、まいったまいった。今ワシントンなんやけど、ホテルに缶詰なんや。外出られへん。はじめはテロのことわからんかった。今どういう状態なんかも、テレビ見ても今いちようわからんし。とにかく厳戒令でとって、街には出れんわ。ごめんな、心配したやろ。電話がなかなかつながらんくて。」

このときばかりは、神様にどれだけ感謝したか。
今ではダンナのお母さんたちと、「ほんまに運が悪かったなあ」と笑い飛ばすことができる。でも、こういう心配はもう2度としたくない。

あの胸が締めつけられるような不安の感覚をようやく忘れかけていた、そんな矢先の今回の電車事故。
どれだけの多くの人が、あのときの自分と同じような不安や心配をしたのだろう。

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2005.04.13

3歳の記憶

今日の日記で、親が好きだった音楽のことをいろいろ思い出していて、ある記憶がずっと頭の片隅にあるのをふと思い出した。

母は長渕にはまるまでは、洋楽一辺倒の人だったと記憶している。
よく聴いていたもので私が覚えているのは、ビートルズとカーペンターズ。
とくにビートルズは父も大好きで、たぶんこの年代の人(いわゆる団塊の世代)はみんなそうだったんだろうけど、学生の頃から熱狂的なファンだったんだろう。いまだに実家にはビートルズのレコードがダンボールで山のようにある。父は「値打ちものだ」と言っているけど。

母に聞いた話で「へえ」と思った話。
母が高校生の頃、はじめてビートルズが来日し、公演することになった。武道館で。ビートルズの人気が、まさに最高潮の時。

母は、広島の田舎のごく普通の高校生だった。
その母に、なんと武道館のチケットがとれてしまったというのだ。母いわく、当時の応募数からいったら、もうそれは奇跡的なことだったのだとか。
私もテレビとかで、そのビートルズ来日の映像とかを目にしたことはあるから、なんとなく想像はできるけど、本当にすごいことだっただろう。

でも母は当時、けっこう厳しい私立の女学校に通っていて、校内では、万がいちその武道館公演の日に欠席するようなことがあれば退学処分にします、というような厳格な御触れが出ていたらしい。

結局、母は行けなかった。手もとのチケットを握り締めて、それはそれは悔しかったと。
母の母親(私の祖母)は、「行きたいなら反対しない。行っておいで」と言ってくれたらしいけど。さすがだよ、おばあちゃん・・・。
今となっては、母は「あのときは退学覚悟でも行くべきだったよ。今の私なら行けるのになあ」と懐かしそうに言う。

さて、長くなってしまったけどここからが本題。
それほどビートルズを愛していた私の母。父も大好きだった。
そんな両親に、悲しいニュースが飛び込んだ。1980年12月8日、ジョンが何者かに撃ち殺されたというニュース。

今でもおぼろげながら、はっきり覚えている。
母が暗い顔をして、台所でうつむいている姿。そこへ、仕事を終えた父が玄関の戸を開けて帰ってきた。
すると、とたんに母の顔がくずれ、父に駆け寄って泣いた。父も、涙目で静かに母を抱きしめた。

1980年っていったら、私が3歳のとき。
「3歳だったのに、こんなにはっきりとした記憶があるなんて、もしかしたら思い違いかも」と、何度も思い返したけど、やっぱりあれはジョンが亡くなった日だった。

私はどちらかというと、小さい頃の記憶が鮮明ではない方だ。
保育園の記憶はほとんどないし、小学生の頃の記憶も学校生活においてはあんまり覚えていない。

でも、この3歳の記憶だけは、やたらと鮮明なのだ。背景も、母と父の表情も。
母が泣く、というのを、はじめて目にした瞬間だったのかもしれない。よっぽどショックだったんだろうなあ。

毎年12月8日が来ると、その記憶がよみがえる。
だから、学校でお決まりの「今日は何の日?」と朝のHRで担任が話していても、真珠湾攻撃だ、開戦日だ、ということは言われるまで気づかなかったり。

母と父が昔、そんなふうにいたわりあっていたのを覚えているということは、ちょっと嬉しかったりする。

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2005.03.31

日焼け

今年は久しぶりによく日に焼けそうだ。というか、もうすでに顔と手の甲は色づいてきている。
雨が降らない日は毎日公園にくりだしているので、当然焼けます。春が一番紫外線が強いらしいし。

私はたぶん今までの人生で、自分と同じ年齢の女性(いや男性でも)とを比べた場合、軽く100倍は紫外線を多く浴びていると思う。とくに学校生活において部活が文科系だった人と比べると、もう比べられないほど。

中・高でやっていた軟式テニス・ソフトボール。炎天下で毎日。当時はそれほど気にしちゃいなかったけど、今考えると恐ろしいほど、肌にたいするケアをしていなかった。まあ子どもなんだから当然。って、今もそんなに美容に気を配ってなんかいないけど。

新学期が始まるこの季節、始業式のあとに撮るクラス写真で、すでにもう他の人とは顔の色が違っていた。黒いのだ。
「まだ3月だしー」と、日焼け止めなんかぬらずに部活に明け暮れていると、もうお肌は小麦色。部活の友人たちと、どっちの方がどれだけ黒いだの、そんなあほな比べあいを常にしていた。
夏休みに入る前には、「笑うと歯しか見えないー」と笑いあうほど、黒びかっていた。
それでも高校生くらいになると、夏休み前までくらいは日焼け止めを塗ったり帽子を深くかぶったりして、悪あがきをしていた。でもそんないじらしい努力も、夏休みに入るとあきらめに変わる。朝の9時から夕方5時まで、木陰ひとつないグラウンドで、死にそうなくらいのハード練習、日焼けのことなんか二の次だった。
9月の新学期が始まると、もう「女の子」というのも気が引けるほど、できあがっていた(焦げあがっていた?)。

ただでさえ私は、昔から顔にそばかすがあるのだ。あんまり気にしてないけど。
今となってはあの膨大な紫外線を浴びた痕跡は、あとかたもないくらい色白になった。しかし、これから年をとるにつれあの直射日光づけだった頃のしっぺ返しが来るのではと、ヒヤヒヤしている。

最近そばかすが濃くなってきたような・・・もしかして、これってシミ?
そんな心配をしながら、このところ鏡に向かってしまう。年とってきたなあと思う。

普段はあまり化粧もしない私ですが、そんなブラックな過去をもっているので、このところ毎日、日焼け止めだけはしっかり塗っています。でも、今日も帰ってくるとひりひりするほど痛い。赤くなっている。あー。
いつまで頑張れるか(日焼け止め)。
そしてあずさもいい色になってきた。(まずはこっちを心配しろって?)

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2005.03.11

マラリア

この思い出はたぶん一生忘れられないだろう。
まるでお笑いネタのような、マヌケなマヌケなお話し。

私は5歳の頃、ヘルニアで手術経験がある。鼠径ヘルニア。
両足の付け根部分に腫れのような膨らみができ、痛みをともなう。いわゆる脱腸だ。
幼児に先天的なものとして多く見られ、簡単な手術で完治する。とりたてて珍しい病気でもない。
私の下腹部にもうっすら傷跡が残っているものの、今となっては記憶の中にもうっすらと残る程度だ。

それが、大学1年の時にある出来事がきっかけで、一変して強烈な思い出につながることとなった。
その発端となったのが、献血。

大学に入ってすぐくらいに、街をぶらぶらしていたら献血センターが目に留まった。
私はそれまで献血したことがなかったが、「あ、献血してみようかな。」と急に思いたち、中に入った。

私に気づいた受付の白衣の女性が笑顔で迎えてくれ、アンケート用紙の記入を頼まれた。
見ると、現在の健康状態や過去にかかった病気などのアンケートだった。
さささっと記入をしていたが、過去にかかった病気の質問でペンが止まった。病気の一覧があって、かかったものにチェックをつけるというものだった。

「あ、あの手術したやつもチェックした方がいいのかな。」と、一覧の中から探そうとするが、とっさに病名が思い出せなくなってしまったのだ。ど忘れというのか。
「はて?あれ???」
必死に思い出そうとするが出てこない。その間も病名一覧を目で追いながら探すと、”マラリア”というのがあった。

ここで「まさか」とお思いの方、そのまさかです。
その”マラリア”の文字を見つけた瞬間、
「あ!これこれ!」とチェックしてしまったのだ。・・・なんと愚かな。

言い訳すると、マラリアがどういう病気だったか、その当時知らなかったわけではない。
熱帯などで蚊を媒介として流行する、恐ろしい感染病という簡単な知識くらい、あったはずなのだ。
それがあの初めての献血という、心もちちょっと緊張していた状況と、自分がかかった病気をど忘れするという焦りから、一瞬目にした似たような響きの”マラリア”に、安堵の安らぎを求めてしまったのだ。

当然、私のアンケートを見た白衣の受付嬢の顔色がサッと変わった。
「マ、マラリアにかかられたことがあるんですか・・・?!」
マヌケな私は心の中で「マラリアくらいで、何をそんな血相変えて」とつぶやきながら、
「はい。5歳くらいの時に。」と、さらっと答えたのだ。あーあー。ホント恥ずかしい・・・。

その受付嬢は、すぐさま私のアンケートを持って奥の部屋に入って行った。おそらく駐在の医師に相談に行ったのだろう。
まもなくしてその女性が、ひどく困惑した表情で戻ってきて、私に言った。
「大変申し訳ございません。マラリアに感染されたことのある方は、献血をしていただくことができないんです。」

ショックだった。(ばかだね)←今の私の心の声
私が幼い頃にした病気が、そんなに深刻な病気だったとは。(本当におばかです)
家に帰ってからも落ち着かなかった。「私の血は、もう汚れてしまったんだ・・・。」
この出来事を母に伝えようと、電話をしてこの献血センターでのやりとりを話した。
「お母さん・・・、私って一生献血できんらしいんよ。あのね・・・・・・・」
電話口で母が息を呑んだ次の瞬間、
「ばかじゃないの!! あんたがかかったのはヘルニアでしょ!! 信じられん!!」
さんざんあきれられた後、「はやく献血センター行ってわけを話しといで! あんた絶対ブラックリストに載ってるよ!」
そうか・・・。あの住所やら名前やら書いたアンケートは向こうに渡っているのか・・・。

次の日も、その次の日も、「行かねば」と思ったがどうしても行けなった。
「この間のあれは間違いだったんです」と、わけを話している自分を想像したら、顔から火が出るほど恥ずかしかった。とてもじゃないが、そんな恥ずかしいことはできない・・・。
「本当に私は、もう一生献血ができないかもしれない。」

それから3年の月日が流れた。
大学4年の秋の終わりに、大学の構内に献血カーが停まって、テントを広げて献血を呼びかけていた。
もう卒業を間近に控え、大学に卒論の演習を受けに来た帰りだった。

「ここで行かないと、私は一生献血できない。」
そう思い、あの忌まわしい過去に決着をつけようと思いたった。偶然、前日のテレビのニュースで、「B型の血液が不足している」というのを耳にしていたことも、私の背中を押してくれた。

意を決してテントに入った。3年前のように、笑顔で迎えてくれる受付のお姉さん。悪夢がよみがえる。
だめだ、ここでへこたれると、一生この重荷を背負ったままだぞ。頑張れ私!
「実は・・・」と、3年前の出来事を、正直に話した。ものすごく恥ずかしかったが、ちゃんと最後まで話せたよ。うう。

はじめは私のただならぬ様子に、神妙に聞いてくれていたお姉さんの顔が、みるみる緩んでいくのがわかった。
「本当はヘルニアで・・・」と私が言ったところで、もう我慢ならんといった感じで吹き出された。
・・・いいんです。笑ってください。マヌケな話なんですから。
それからなおお腹を抱えて爆笑しているお姉さんは、「ちょっとちょっと聞いて~」と、その場の献血スタッフみんなに言いまわっていた。
・・・ちょっとお姉さん。それはさすがに傷つくんですけど・・・。
献血カーが、笑いの渦。
無事に誤解が解けて、針を指してくれたお医者さんまでも、肩を震わせながら「もう大丈夫だからね」と優しい言葉をかけてくれた。
献血が終わって、スタッフ全員に肩を叩かれながら「また来てね」と見送られた。
極限に恥ずかしかったけど、ああ勇気を出してよかったという思いでいっぱい。これでブラックリストから抜けだせたのだ。

しかし・・・。
あんな恥ずかしい思いをしたのに、あれ以来献血に行っていない。
なんか、ブラックリストから抜けた理由までが、全国の献血センターにまわっていそうで、・・・こわいのだ。

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2005.03.07

子どもの頃、一番好きな季節は秋だった。
風が爽やかで気持ちがいいし、なにより10月の誕生日が楽しみだった。
田舎で育ったというのもあるけど、周りの風景がどんどん変化していくのが好きだった。たんぼは黄金色、木々は暖色系へ変わっていく。ゲロゲロと毎夜聞こえていたカエルの大合唱が、いつの間にかコオロギや鈴虫などの秋の虫の鳴き声に変わっている。
食べ物もおいしい季節。こたつに再会できる幸せ。秋祭り。
こうやって考えてみると、田舎にいたから秋が好きだったんだなあ。
あの風景に、あのカラッとした爽やかな風が吹いて、金木犀の香りがどこからかして、嬉しい気持ちになったんだなあ。

今では、春が一番好きな季節。
寒さが苦手なので、はやく来い来いと春を待ちわびている。
寒さがゆるんできて、日差しが暖かな日は、心までおだやかであたたかになる。

桜が咲くのをとても楽しみに待つようになった。
咲き始めて、満開になって、散り始めて、葉桜になっても、まるで会いたい人に会いに行くように、何度も桜を見に出かけるようになった。
大きな公園や見どころと言われるような名所もきれいだと思うけど、街角の川沿いに1本ぽつんとある、そんなひっそりと美しく咲く桜が好きだ。

春は、なにか新しいことが始まるような、ワクワクとした気持ちになる。
さあ頑張ろう!と、心がしゃんとする。なんでもできそうな気持ちになる。

人間も動物なんだなあ、と思える季節。
暖かい日差しを浴びて、景色が色鮮やかになって、植物の花の香りが漂ってきて、「さあ動こう」とスイッチが入る。

今年はどんなことがはじまるかな。どんな自分を見つけられるかな。
私の1年のはじまりって、だんぜん春だなと思う。

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2005.03.05

遠い昔の恋のあれこれ(中学編)

(中高編)で好きになった人の前に、好きだった人がいたことを、忘れていた。
ということは、中1の時だな。

なんのことはない。家がお隣さんで、1つ年上の幼なじみだった。
私は中学時代テニス部に入部していて、彼もテニス部だった。
たしか5面あるテニスコートのうち、3面が男子部で、残りの2面が女子部。顧問の先生も違ったので、それほど交流があったわけではない。でも仕切りのないすぐ隣のコートだったし、ボールが飛んでいくたび拾いにおじゃましていた。

鼻をたらしていた頃から知っているはずなのに、ある日突然、彼のことが気になり始めた。
小学生の頃なんて、ただの「意地悪おにいちゃん」くらいにしか思っていなかった。ヘビをつかんで見せびらかしてきたり、一緒に下校していても、歩くのが遅い私を平気でおいてさっさと走って帰ったり。

中学に入ってしばらくして、その「意地悪おにいちゃん」がずいぶん変わっていることに気づいた。
背も伸びていたし、Tシャツを腕まくりして真剣に部活に打ち込んでいる彼が、やけにかっこよく見えた。
「あれ?あれ?」と目で追っているうちに、好きになっていた。

と、ここまで書いてみて、やっぱり恥ずかしい・・・。
こんなん世界中に発信して、いったい私ったらなにを伝えたいんだか・・・。

気をとりなおして。

中学に入ってからは、小学校のように気軽に口げんかしたりできなくなった。廊下で会っても、なんか気恥ずかしかった。兄弟に校内で会った時と似ている。
それまで下の名前で呼んでいた、「~くん」という呼び方も、学校ではできなかった。たまに話しかけるときは「~先輩」に変わった。そのくせ彼は、今まで「ちゃん」付けで呼んでくれていたのに、いきなり呼び捨てになってたり。そして私も私で、それにドキッとしてしまったり。
・・・うわあ、書いててくすぐったいなあ。思春期って感じだよ。すごいたくさん思い出してきた。

そんな思春期のお互いの変化が、たまらなかったなあ。
その3年前くらいまで、すっぽんぽんで川で一緒に泳いだりしていたのに。不思議だー。
私はたぶん、男の子を意識し始めるのが遅かったと思う。近所の幼なじみはみんな男の子だったし。
それが、いきなり1年のブランクで、どんと変わってたもんだから。

今ではそんな感情を思い出すのも難しくなっているけど、この年頃って、好きな人のことを考え始めたらどうにもとまらなくなることがあって。
「どうしようどうしよう!だめだ、だまっていられない!好きって言ってしまいたい!」
そんなかんじ。

で、私はこのときどうしたかというと、手紙を出したのだ。住んでいるのは隣だというのに。
しかも、自分の名前はイニシャルで(このへんが子どもっぽくてあほらしい)。

別に付き合ってほしかったわけではなかった。彼からなにか返事がほしいわけでもなかった。
ただ、私が好きでいるということを、知ってほしかった。
だから、手紙を出した次の日はドキドキだったけれど、彼と会っても知らん顔をしていた(挙動不審だったと思うけど)。

それでそのままフェイドアウトすればよかったのだ。伝えただけで、満足だったのだ。
それなのに。
3日後くらいに、1こ上の面識のない女の先輩から呼び出された。
この人、彼の仲のいい女友達だ。すぐに嫌な予感がした。も、もしかして・・・。
予感的中。
「~君宛てにこの手紙が来たらしいんだけど、宛名が○・○っていうイニシャルなの。もしかしてあなた?」
ショックだった。私だとばれたことが、じゃない。
女友達をつかって、私に確認したことがずるいと思った。
悔しかったので、「その手紙出したの、私じゃない」とつっかえした。彼がどう思ったかはわからない。

「女友達には相談できるのに、幼なじみの私に直接聞いてくれないんだ。」
そう思ったら、悲しかった。
もう彼とはバカ言い合ったり、普通に話したりできないんだ。もう、どうでもいいや。

それ以来、彼とは口をきいていない。
高校も別々になってしまったし。たまに駅で見かけても、同じバスに乗っても、目を合わせることができなかった。
何年かたつとさすがにばかばかしくなって、「普通に話しかけてみようかな」と思ったけど、できなかった。

今思い出していて、昔の私ってばかだったなあと、おかしくなってしまった。
今ならこんなに深刻になることないのに。
イニシャルで手紙を書くことなんてないのに。そもそも、手紙なんかで伝えないなあ。
彼の女友達にも、「私だけど、それがなに?」って言えるのに。
彼にだって、「友達なんかに頼んだりしないで、直接聞いてよ!」って言えるのに。
こんなことで、大切な幼なじみと疎遠になるなんて、私バカだなあって思えるのに。

あ~笑っちゃうぜ。思春期っておもしろい。
この頃には二度と戻りたくないけど、この頃があって今の私があるんだなー。

あずさの思春期ってどんなだろう。
変な態度とったり、妙にぎこちなかったりするんだろうか。
自分の思春期のこと思い出したら、娘のこともなんとなく理解できるような気がするんだけど。

忘れちゃ駄目だね。思春期の私。

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2005.02.02

遠い昔の恋のあれこれ(中高編)

20代後半の女がする昔の恋話なんて、おもしろくもなんともないかもしれませんが。
お暇な方はどうぞ。

さて初恋。まずはここから。小学生の頃の記憶がほとんどない私。たぶん何人か気になった人はいたと思うけど、はっきり覚えてない。本格的に「好きだなあ」と思える人ができたのは、中学生になってから。
中学2年の時同じクラスだった野球部の男の子。この人には燃えた~。ほんっとうに好きだったなあ。
別に目立つ人でも、とびきり明るい人でもなかったんだけど。中学生くらいの男の子によくある、変にからかったりすることのない、優しい人だった。地味におもしろいことを言ってなごませてくれたり、ちゃんと目を見て話してくれたり。話せた日は、夜寝るまで嬉しくて嬉しくて。次の日も会えるのが楽しみで、わくわくして学校に行った。
あ~懐かしいなあ。こんな気持ち。いつからこんなピュアじゃなくなったんだか。(ピュアって・・・)
私はたぶんこの頃、赤面症だったと今では思っている。人前はもちろん、男だろうが女だろうが、慣れない人と面と向かって話をする時、耳まで熱くなるのをいつも感じた。ちゃんと人の目を見て話せなかった。人と話している最中も、「早く話を切り上げたい」それ一心だった。そしてちゃんと話すことができない自分に、自己嫌悪の毎日。今でもそんなところがあるけど。ずいぶんましになったし、相手の目を見て話すことができるようになった。
それはたぶん、この人のおかげなのだ。
この人が目を見て話してくれることを、私はとても嬉しいと思った。それで、ちょっとずつちょっとずつ、私は人と話すときに相手の目を見る訓練をしたのだ。そうしたら自然と、相手の話に集中できるようになった。

結局この人のことを、高校3年まで好きだった。
高校は別々だったけれど、高校野球の地方大会など、かなり遠くまでこの人に会いたくて見に行った。私の野球好きは、この人の影響。
高校3年の夏、補修授業の帰りに駅で偶然ばったり再会した。それで、私の恋心は爆発したのだ。
変わっていない彼に、いてもたってもいられなくなった。受験勉強も手につかない。3日ほどぐるぐるぐるぐる考えた結果、意を決して電話で呼び出し、告白した。
くうう。思い出しただけで胸きゅん(おいおい)。
いま考えてもすごいことしたなあ。精一杯の勇気をふりしぼったんだなあ。えらかったなあ、私。

結果はふられてしまったけど、本当に言ってよかったと思っている。だって、彼とはこの日以来、会ってない。
あの夏の日、私が呼び出して会わなかったら、うやむやになって消化しきれないまま、ずっと引きずっていたかもしれない。

告白したあとも、呼び出した中学校の校庭の木陰で、いろいろ2人で話した。これからの進路のこと、中学時代のこと、たくさん。こんなに2人きりで話せたのも、たぶんそれが最初で最後。やっぱりいい思い出。

それにしても、彼から別れ際、最後に言われたせりふ。
「悪い思い出つくってごめんな」
きゃあああ。は、恥ずかしい~。こんなせりふ、よく言えたよなあ。今思い出すと、全身くすぐったい。
でもね、あの当時は本当に嬉しかった。この人を好きになって、本当によかったって思えた。

いま、彼はどうしてるのかなあ。会ってみたいなあ。
結婚して、子どもがいる? それともまだ独身? 
話したいことがいっぱいある。
きっと今なら、自然に話せると思うんだけど。とりとめのないことを、たくさん。

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2005.01.12

子どもの記憶

最近、というか子どもを産んでから不思議でしょうがないことがある。とてもあほらしいことなんだけど、あずさを見ていたらそう思えてしかたがないのだ。
私にも、こんなにかわいい時期があったのか?
そもそもかわいい赤ん坊だったのか?
私も、太ももにあの赤ちゃんジワがあったのか?

あー、信じられんね。自分が赤ん坊だったなんて。
なあんか、子どもの頃の記憶って、小学生くらいからの小憎らしい自分の記憶しか残ってなくて。
ちょうど今のあずさと同じくらいの、自分の姿をアルバムで見たら「わあ、かわいい」って思えるんだけど。どうも今の私と一致しなくて。不思議なんだよ。
成長して、ひねくれた私を、母がかわいいと思ってくれていたのか。こういうことを最近よく考える。
とてもそうは思えなくて。今でも私のことを母がどう思っているのか、不安になるときがある。
なんだろうなあ。こう感じるってことは、私は母のことを心のどこかで信じきれてないんだろうか。
好きでいてもらいたい、とずっとずっと願っていた子どもだったはずなのに、今思い出せるのは、ものすごい暴言を母にぶつけている自分の姿だ。
あんなひどいことを言った私を、母が好きでいるはずがない、という思いがある。
たぶん小学校低学年の頃、はじめて母に頬をひっぱたかれたことがある。後にも先にもそれ1回だけだ。
ぶたれた理由はなんだったかもう忘れてしまったが、どうしても母の言うことが納得できなくて、「もう私なんて死んじゃえばいいんでしょ!!」と言うセリフを吐いた後、ピシャリとやられた。母はその後なにも言わなかった。涙目だった。
それからもうひとつ苦い記憶。母が家をよくあけるようになった中学3年の頃。
明らかに仕事以外のことで帰りが遅くなったのを、「仕事だった」という母に腹が立って、「そんなに嘘をつくのって楽しいの?」と激しく責めた。
ああ、今こう思い出してもつらい。無くしてしまいたい。母が離れていく悲しい思いが、暴走していた。自分でどうすることもできなかった。止められなかったんだろうなあ。
母は、きっと覚えているだろう。そして今も、私の顔を見ると過去がよみがえって、苦しい思いをしているのかもしれない。
そう考えると、自分が純粋でかわいい子どもだったとは、とうてい思えないのだ。だからいっそう、あずさをみていると、その愛おしさがたまらなくなる。

こんなにかわいい無垢な赤ちゃんが、私みたいになるんだろうか。嫌だなあ。私が母をののしったように、私もこの子から責められたりするんだろうか。うう、考えたくもないよそんなこと。

願わくば、嫌われてもいいから(いやだけど)、心のどこかで頼りにされるような親にはなりたい。
・・・母もそう思っているんだろうな。きっと。

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